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哲学の始まりと終わり
――現象学的還元の動機をめぐって――
吉川 孝
はじめに
われわれは「なぜ」哲学をするのか、哲学はどのような「動機」に導かれて始ま
り、「何のために」役立つのか。本稿はそうした問いをフッサール現象学に即して考
察するため、「現象学的還元の動機」1や「哲学の実践性格」などの問題が成立する次
元を見極めたうえで、「哲学の始まりの現象学」に取り組むことにしたい。ゲッティ
ンゲン時代(1901-1916)とフライブルク時代(1916-1926)のフッサールの実践哲
学を対比することは、以下の考察にとって大きな意味をもつだろう。
1.沈黙と饒舌
フッサールは『現象学の根本問題』の講義(1910-11)において、現象学は動機を
もたない、現象学的還元の動機を問う必要はないとはっきり述べている。
「現象学に対して、なぜ経験措定を遮断するのかという動機を帰する必要は決
してない。現象学は現象学としてそうした動機をもっていない」(ⅩⅢ,156f.)。
「当該の現象学者」の動機はあくまでも「私的な事柄」であって現象学の学問上
の主題ではないし、現象学が経験科学の基礎づけを介して日常生活に役立つとして
も、そのときの動機はまさに「その学問の関心」である(ⅩⅢ,156 Anm.)。
「現象学はエポケーとともに始まることができるのであり、そのうえでさらな
る動機を問い求める必要はない」(ⅩⅢ,156 Anm.)。
このように純粋意識という自己完結した領域を探求する現象学に実践的動機の問
いが入り込む余地はないように思われる。しかし、十数年後の『第一哲学』の講義
(1923-24)では前言撤回としか受け取りようのない発言がなされている。
「哲学を始めつつある主観がみずからに哲学的生を送るように定める主観的な
動機づけ状況の形式的-一般的な特徴を考察してみよう」(Ⅷ,8)。
ここでは「哲学を始める者」「哲学者になる者」の「動機づけ」が主題化され(Ⅷ,
※フッサール全集 Husserliana(Martinus Nijhoff/Kluwer,1950―)からの引用に際しては、慣例
に従って巻数(ローマ数字)と頁数(アラビア数字)を本文中に記載する。また『論理学研
究』は『論研』、『純粋現象学及び現象学的哲学のための諸構想』は『イデーン』、『ヨーロッ
パ諸学の危機と超越論的現象学』は『危機』と略記する。
1 「還元の動機」の問題は、ケルンによって提起される「還元への道」(Kern, Iso:Die drei Wege
zur transzendentalph?nomenologischen Reduktion in der Philosophie Edmund Husserls, Tidjschrift
voor Filosofie 24, 1962.)の問題から区別される。前者はそもそもなぜ哲学をするのかという
ことを問い、後者はどのような道を経由することが超越論的主観性の具体的全体性を開示す
るのに適しているかということを問う。「道」の問題はすでに始まった哲学の内部において
成立するものであり、哲学の「始まり」そのものを主題にしていない。Vgl. Luft, Sebastian:
Ph?nomenologie der Ph?nomenologie. Systemathik und Methdologie der Ph?nomenologie in der
Auseinersetzung zwischen Husserl und Fink, Kluwer, 2002. S.79f.
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§§28-30)、哲学の「始まり(Anfang)」について論じられる。哲学を始める者は完
全な「真理」に「純粋な美」を見いだし、「真理への愛」(Ⅷ,10)や「美への無限の
憧憬」(Ⅷ,15)を抱きつつ、完全な認識という「それ自体最高のもの」に「献身」す
るために「みずからの人格性の最も内的な中心から」「決断を下す」(Ⅷ,11)。こうし
て真理が価値領域に移されて愛や憧れの対象となることで、愛するがゆえに身を捧
げるという「動機づけ」のプロセスが饒舌に語られるようになる。
還元の動機の問題が成立する地平を見極めるため、ゲッティンゲン時代の「沈黙」
とフライブルク時代の「饒舌」という正反対の見解の背後にあるものを探りたい。
2.ゲッティンゲン倫理学と構成問題
「沈黙」の背景を理解するには「ゲッティンゲン倫理学」2の思想圏が検討されね
ばならない。もともと『論研』(1900-01)で「何かにつ
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