ルソーにおける道徳教育思想の現代的意味について.pdf
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愛媛大学教育学部紀要 第54巻 第1号 1~10 2007
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1 はじめに
ルソ (ーJean-Jacques Rousseau, 1712-1778)の深い問
いかけを含んだ一文(ルソーの良心説に関わる)を冒頭に
掲げて本稿の端緒としよう。
「もし、自然(nature)が人間に理性(raison)の支柱として
憐れみの情(pitie?)を与えなかったとしたら、人間はその
全ての徳性(morale)をもってしても怪物(monstre)にす
ぎなかったであろう」(1)。
さて本稿は、筆者がルソー教育思想の基底的研究を目
指して進めている初歩的作業の一環である。ついては一
昨年の本学部紀要において『ルソーの求めた教師像につ
いて-「良心」と「自己教育」を通して-』(2)と題した拙い
小論で、ルソーの教師像を主として教師の「自己教育」の
視点から、人間論的にも新たに追究したが、何分にも、
教師も子どもも含めた人間一般の「自己教育」を支える内
なる「良心」の内面的起源、ないし人間性、宗教性につい
ては、十分に言及し追究して来たわけではなかった。
それ故、本稿では、価値観の多元的風潮の中、「生きる
力」「心の教育」「愛する心」等の意味付けとその教育実践
の在り方が問われる現代の学校教育社会を念頭にして、
まず第一に、教育活動、並びに道徳教育の本質、理念を、
一般的かつ根本的に再確認してみたい。然る後に、ルソ
ーにおける人間の「自然」としての内心感情たる「良心」の
根源、発現過程とその人間性ないし宗教性を再検討する
ことを通して、ルソーの現代的意味を求めてみたいので
ある。
要するに本稿は、以上二側面の考察に依拠しつつ、前
回拙論の続編として、ルソーの教師像(人間論、教育論
を含む)を「良心」ないし道徳教育の観点から照射し、多
少とも補充深化させることをささやかな目的とするもの
である。
2 教育の機能と道徳教育(一般的考察)
冒頭に記した『人間不平等起源論』(Discours sur l?
origine et les fondemens de l? ine?galite? parmi les
hommes, 1755)(以後『不平等論』と略記)におけるルソー
の真摯なる深い問いかけを鑑みるとき、人間が怪物とな
らなかったのは、一体何故だったのだろうか? ルソー
によれば、勿論それは自然(nature)の力によるのだが
(ルソーのこの根本的着想については後述する。)では果
たして教育は、人類とその小社会の誕生以来、人間に対
して一体何を為して来たのであろうか? 本章では、か
かる基本的かつ古典的視座から、ルソー良心説の道徳的
意味を求めて、まず一般的に教育的行為とは何かという
機能的考察を試み(3)、そこに道徳教育を位置付けてみた
いのである。別言すれば、道徳教育とは、よく言われる
ように、広義における教育機能の中核をなす極めて重要
な教育なのであるが、そもそも道徳教育はこの広範で多
様な教育的機能の中にあって、如何なる位置にあり、如
何なる役割を担い、如何なる点で「良心」の問題と関わっ
ているのであろうか。
周知のように、元来教育的行為は、機能的に、おおよ
そ次のように三側面に区分され要約される。
まず第一に、新生児の生物的生命の維持発達に配慮す
ルソーにおける道徳教育思想の現代的意味について
-「良心」の根源を求めて -
(教育学教室) 伴 野 昌 弘
Sur le sens moderne de la Pense?e de l′e?ducation morale chez Rousseau
- a` la recherche de la source de la “Conscience”-
Masahiro BANNO
(平成19年6月8日受理)
伴 野 昌 弘
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るという「養育」の側面である。つまりこれは「生む」とい
う生物的行為に対して、生まれたままの特に無力な存在
としての人間の生命を守り、鍛え「育てる」という人間教
育の基本的、基底的機能である。
第二に、「生きるとは呼吸をすることではない、活動す
ることだ。」(4)とするルソーの言辞を待つまでもなく、人
間が「生きる」ということは、単に生物的生命がその営み
を持続するということに止まらない。人間は、歴史的社
会の中で生きねばならないのであるから、生まれたまま
の生物的意味での人間に、人間が永年培ってきた様々な
「文化財」(知識、技術、道具、価値、習慣など)を伝達す
る側面である。つまりこれは人間を一定の社会の一員と
して適応して生きることができるよう社会化し文化化す
る、「社会の同化形成作用」の機能である。
第三に、人間が歴史的社会の中で、その一員として生
きるという
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