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日本思想史研究の歴史と課題 35
日本思想史研究の歴史と課題
田原 嗣郎
1)はじめに
日本列島は5?6?7世紀から19世紀までは中国文化、その後は西欧文
化の影響を受け、それらを摂取してきたので、日本の思想は外来思想の
堆積のようにみえる。日本列島での文化の発達は中国大陸より1000~15
00年程も遅れており、列島に儒教?仏教および律令などの中国文化が朝
鮮を経由し、または直接に伝えられた時期にはそれに匹敵する抽象度の
高い理論をもった思想はまだ存在しなかったが、それらを主体的に受容
できる程度の思想的基盤は形成されていた。外来の思想はその上に堆積
し、この思想的基盤に影響を与えると同時に自らも変化しつつ存在した。
しかし外見的には、日本に中国の思想がそのまま移ってきたかのように
見えたのである。中国の思想は以後も流入を続け、19世紀半ばまで列島
は中国文化の傘のなかにあったといっても過言ではない。この期間に中
国から伝来した思想と日本の思想的基盤との相互作用が続けられ、後に
西欧思想を受容する基盤が形成された。その頃まで日本で学問といえば
漢学を意味し、思想的表現の過半は中国のそれを借りていた。
2)学問としての日本思想史の成立
近代的な学問としての日本思想史学は村岡典嗣(1884~1946)および津
田左右吉(1873~1961)によって始められた。村岡の著『本居宣長』(191
1)は、ドイツの古典学者August B6ckh(1785~1867)の「認識された
ものの再認識」という文献学の方法が宣長の古典学の基底に横たわって
いるという想定の上にたって書かれたものである。日本思想史という学
問が本居宣長のなかに西欧の学問的方法をみることで宣長を継承し、宣
長を対象とする著作によって出発したことは象徴的である。本居宣長は
古代以来、日本人の思想が中国思想=漢意によって改変されてしまって
いると考え、まだ漢意に毒されていなかった古代日本人の思想を明かに
するために、日本で最も古く、漢字を用いてはいるが、和文で書かれた
「古事記」を対象として、漢意に毒された後世の推理や解釈を一切排除
して、先入見なしに「古事記」の記述をそのまま受け取るという方法を
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自覚的に適用して『古事記伝』を著作した。日本における儒教や仏教の
思想ではなく、それらを排除したところに日本固有の思想(宣長の意識
に於ては“普遍的な思想”)を発見しようとした宣長の研究から村岡は出
発したのであるω。
津田の登場はやや遅れるが、他からの影響が殆ど認められない独特の
立場によって、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』4冊を1916年
から21年にかけて刊行した。これは古代から江戸時代までの日本思想史
を概観したものであり、思想を実生活との関連の下に理解しようとする
ものである。彼は儒者や仏教思想家の教義?哲学は国民の実生活とは殆
ど関係のない知識人の書物の上での知識や机上の思弁の産物であるとし
て、極めて低く評価し、それに対して庶民のための文芸などを広汎に材
料として用いた②。
井上哲次郎(1855~1944)が西欧哲学のカテゴリーを用いて徳川儒教を
研究した三部作、『日本朱子学派之哲学』(1905年)『日本陽明学派之哲
学』(1900年)『日本古学派之哲学』(1902年)を刊行したのは1900~5年
であり、それが村岡らの前史となるが、日本思想史学の創始者ともいえ
る村岡?津田はそれとは違う方向をとった。それは井上を代表者とする
「国民道徳論」的な研究に対する反発でもあった。国民道徳論とは、
「伝統」思想をもとに、それに欠けている道徳を西欧の倫理から混合し
て国民が遵守すべき新しい道徳を樹立すべしとする主張であり、伝統思
想とは儒教?仏教?神道を意味し、儒教がその中核であった。井上の研
究は徳川期儒教の歴史を思想史として扱った最初の業績であったが、そ
れには「国民道徳」の振興という政治目的が先行していた。この流れが
1930年代以後の「日本精神」論の源流となる。「日本精神」論とは、古
今を貫通する「日本精神」というもの(実体)があって、それが歴史的に
さまざまな様相で自己展開するという考え方である。従ってあらゆる外
来文化も、元来、日本精神内に潜在していたとみられることになる。こ
れは井上の業績にみられるように、西欧思想を排除しようとするもので
はなく、いわば無原則的に東西の思想を混合する志向をもっていたし、
それはまた支配層の保守的政治傾向と底でつながっていた。日本思想史
の学問的研究は、このような政治的な流れに反発して、非政治的な立場
をとり、文化史的な方法によって、そういう「伝統」とは違ったところ
に明かにすべき日本の思想が存在する
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