日本歴史——律令制.ppt
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唐の口分田 624年、唐は前代隋の律令を参考として新たに律令を制定した。その中の田令において口分田が規定されている。唐田令では、成年男子(丁男)に100畝(1項=約5ヘクタール)を支給し、うち80畝(約4ヘクタール)を口分田として残りの20畝(約1ヘクタール)を世業田(のち永業田に改称)とした。 子孫代々相続可能な永業田に対して、口分田は60歳になると収公すると規定されていた。果たして長年耕作してきた田地を円滑に収公できたか、については激しい議論が戦わされており、実際には代々耕作してきた田地の一部を永業田、残りを口分田と称して建前を保ったのではないかとも考えられている。 口分田の消滅 唐末期(8世紀末)には、大土地所有が拡大していき、呼応するように徐々に均田制が崩壊していった。この流れの中で口分田も消滅していったと考えられる。 日本の口分田 日本の律令では、戸籍に基づいて6年に一回、口分田として6歳以上の男性へ2段(720歩=約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。 律令での規定 第3条 口分田について、男は2段とし、女は3分 の1を減ずる。5歳以下には支給しない。その地が広い場合または狭い場合は、地域の慣習法に従う。易田は倍給する。支給が済んだ後は、境界(四至)を明確にすること。 第21条 田は6年に1回支給する。死んだ場合は、支給年がきたとき、あらためて収授する。 第23条 田の支給は、支給年の正月30日までに太政官へ申請する。 第27条 政府所有の奴隷(官戸奴婢)の口分田は一般人(良人)に同じとする。私有奴隷(家人奴婢)の口分田は、地域の寛狭に応じ、並びに一般人の3分の1を支給する。 導入 - 衰退の経緯 口分田の祖型は、7世紀中葉の大化の改新頃に始まり、7世紀終盤の律令形成期に口分田制度が確立したと考えられている。記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。このことは、口分田制度によらずとも一定の税収確保が可能となったことを示唆している。 ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国?尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。 また、口分田は原則として売買?譲渡?質入などが禁じられていたにもかかわらず、奈良時代後期頃から質入などの問題が発生しており、班田が順調に行われなくなると売買や譲渡なども行われるようになった。班田が行われなくなると、口分田も事実上農民の私有地化することになる。 日本と唐の差異 支給対象:日本は男女、唐は男子のみ 支給年齢:日本は6歳以上(死ぬまで)、唐は成年のみ(59歳まで) 支給面積:日本は約16 - 24アール、唐は約5ヘクタール 永業田:日本には永業田の規定がない 以上概観すると日本の方が支給対象の範囲が広いが支給面積は狭い。人口?農地が少ないという当時の日本の実情に沿ったものであろう。また水田が中心の日本と、陸田が中心の唐という違いもある(水田のほうが単位面積あたりの収穫量は大きく、同時に労働力も必要とする)[2]。なお、奈良時代の日本の人口は約500万人、農地は100万町(約120万ヘクタール、21世紀初頭が約480万ヘクタール)だったと推計されている。 平城京 平城京(へいじょうきょう、へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。所謂「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城等を模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。 平城京 朱雀門 歴史 707年(慶雲4年):審議が始まり(藤原京から平城京への遷都) 708年(和銅元年):元明天皇により遷都の詔が出された 710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。 740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784
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