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経済論叢(京都大学)第 181巻第3号, 2008年3月
ガーショム・カーマイケルの自然法学
田中秀夫
I はじめに
17世紀のグラスゴウ大学が信仰至上主義という宗教改革の遺産に瑞いでいた
とすれば, 18世紀を迎えて以後のグラスゴウ大学は活気にあふれていた。隣国
イングランドとの合邦 (1707)はエデインパラ以上にグラスゴウにとって繁栄
の好機を与えた。
独立した武勇精神の国として伝統を誇っていたスコットランドは, 17世紀の
経済的苦境, 20万人もの浮浪者を出した飢餓の90年代の悲惨な状態から脱する
ために,ダリエン計画などの重商主義的政策による自力発展を目指したが, し
かし,それに挫折して,最後の手段として合邦を選んだ。名誉革命体制を磐石
にしたかったイングランド側が合邦によって統治の安定を確保したのに対して,
スコットランド側は,合邦によって内国消費税を歳入として獲得するとともに,
イングランドやアメリカ植民地などの大きな市場へのアクセスが可能になった
ことなど,いくつものメリットを得た。こうしたメリットによって本格的な経
済発展,改良が可能になった。合邦によって増加した歳入は経済振興策の原資
として活用された。
しかしまた合邦によって失ったものも大きかった。第一に,議会がウエスト
ミンスターのイングランド議会に統合されたことによってエデインパラの議会
は閉鎖され,それまでの政治都市としてのエデインパラは政治的中枢機能の縮
小を余儀なくされた。議員であった主だった貴族とジエントリは住まいをロン
ドンに移した。それは商業的にもマイナスであった。愛国者フレッチャーが怖
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れたのは富と人材の流出であった。
第二に,それ以上に重要な影響であるが,合邦によって,かつての独立国と
しての誇りが失われ,合邦支持者とジャコバイトに国民は分裂した。合邦派が
やがてハノーヴァ家の王位継承を受け容れるのに対して,後者はステュアート
家の復位のために勢力を結集していく。スコットランド国民の大半は合邦に反
対であった。フレッチャーのような知識人にとっても,より守旧的な国民に
とっても,合邦が豊かな生活を可能にするとは思われず,むしろ合邦によって,
スコットランドはイングランドの意のままに操られ,イングランドに従属した
半植民地に反められるのではないかとの心配があった。イングランドは大国で,
スコットランドは小国であったから,こうした心配は深刻で,多くの国民がス
テュアート家に寄せた恭順の気持ちは愛国的感情なのであった。ジャコバイト
主義は,たんなる復古反動ではなかった。
しかしながら,時間はすべてを乗り越えてしまう。やがて,圧倒的な経済発
展,繁栄の時代が到来する。合法的に植民地貿易に乗り出すことが可能になっ
たグラスゴウは,従来にも増して,商業都市・港湾都市として急速な経済的発
展を遂げた。アメリカとのタバコ貿易などはグラスゴウの商人に巨利をもたら
した。リンネルの輸出も好調であった。リース港を持っていたエデインパラの
商業も隆盛を迎えたが,グラスゴウの繁栄のほうが目立つていた。
連邦制ならいざ知らず,イングランドとの統合的合邦となれば,スコットラ
ンドは富も人材も奪われ荒廃するであろうとして,合邦に反対した愛自者サル
トーンのアンドルー・フレッチャーの予想、はおおよそ外れたが,エデインパラ
に関しては部分的に当てはまった。しかしながら,やがてエデインパラは商業
都市として以上に政治的ならびに文化的な都市として繁栄を繰り広げる。議会
はなくなったが,スコットランド教会の総会は相変わらずエデインパラで開か
れたし,弁護士会や裁判所などの司法機関も,スコットランドの統治にかかわ
る政治機能も,依然として,エデインパラが担った。
こうして18世紀の間に人口でも経済力でもエデインパラを凌ぐようになった
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グラスゴウの経済的繁栄が,グラスゴウ大学の活況の基盤ともなっていた。世
紀半ばともなると外国貿易で獲得された富を持った商人が郊外に邸宅を構え,
さらに彼らの富が文化
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